第4章 シャルガフのパズル
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シャルガフのパズル
科学者たちは、こぞってDNAを分析し始めた
皆、自分こそはコードを解くものである密かに心に誓っていた
シャルガフは当時、誰よりも聖杯の隠し場所に肉薄していた 「動物、植物、微生物、どのような起源のDNAであっても、あるいはどのようなDNAの一部分であっても、その構成を分析してみると、4つの文字のうち、AとT、CとGの含有量は等しい」 この奇妙なデータは一体なにを暗示しているのだろうか
ちなみに生命科学では常に観測データが理論よりも優先する
とはいえ、それは観測が正しく行われているとしての話
科学者はその常として自分の思考に固執する
仮に、自分の思いと異なるデータが得られた場合、まずは観測の方法が正しくなかったのだと考える
それゆえ、自分の思いと合致するデータを求めて観測(もしくは実験)を繰り返す
しかし、固執した思考はその常として幻想
だから一向に合致するデータが得られることはない
科学者はその常としてますます固執する
仮説と実験データとの間に齟齬が生じたとき、仮説は正しいのに、実験が正しくないから、思い通りのデータが出ないと考えるか、あるいは、そもそも自分の仮説が正しくないから、それに沿ったデータが出ないと考えるかは、まさに研究者の膂力が問われる局面
実験がうまくいかない、という見かけ上の状況はいずれも同じだから
ここでも知的であることの最低条件は自己懐疑ができるかどうか
DNAは単なる文字列ではない
シャルガフの場合、あらかじめDNAの構造に対して明示的な「仮説」があったわけではない
DNAの構成に関して、精密な実験を繰り返し行った結果、Aの数=Tの数、Cの数=Gの数というパターンが見いだされた、ということに過ぎない
仮説はむしろここからはじめられる
このパターンが示すことは一体何か
一般的に、使用する文字の数や種類を制限して文章をつづろうとすれば大いなる制約に直面する
しかも先に見たように、アミノ酸に対応した核酸塩基配列は、それが単なる文字列であるとするなら、底に出現する4つの文字の頻度にA=T, C=Gといった使用制限を設けることなどできはしない 結局、言いうることは唯一つ
DNAは単なる文字列としてあるのでない
ではそれはどのような文字列としてあるのか
DNAは単なる文字列ではなく、必ず対構造をとって存在している
DNAの鎖は常にこのような二本鎖のペア構造をとっている あとになってワトソンは、そんなことはちょっと考えれば誰にでもわかることさ、なぜなら自然界で重要なものはみんな対になっているから、と嘯いた
対構造が意味するもの
互いに対合して存在できるのは、化学的な凹凸関係が成り立つから
この特異性が日本のDNA鎖をペアリングさせている
さらに言えば、この二本のDNA鎖がペアリングしながららせん状に巻かれて存在していたのである
しかし、今重要なのは、らせん構造そのものよりも、DNAがペアリングして存在しているという事実のほう
生物学的な意味は、情報の安定を担保するということに尽きる
DNAが相補的に対構造をとっていると、一方の文字列が決まれば他方がもとに容易に修復することが可能となる
DNAは紫外線や酸化的なストレスを受けて、配列が壊れることがある
相補的なもう一方の鎖に構造が保存されていれば、自動的に穴を埋めることができる
事実、DNAは日常的に損傷を受けており、日常的に修復がなされている
この情報保持のコストとして、生命はわざわざDNAをペアにして持っている
そのうち一本は情報を配列としてダイレクトに持つ鎖、すなわちセンス鎖 ワトソンとクリックは、シャルガフの法則を解明した記念碑的な論文の最後に、次のような一文を挿入していた
この対構造が直ちに自己複製機構を示唆することに私たちは気がついていないわけではない。
この相補性は、部分的な修復だけでなく、DNAが自ら全体を複製する機構をも担保している
二重らせんがほどけて、それぞれを鋳型にして新しい鎖を合成すれば、そこにはツーペアのDNA二重らせんが誕生する
これが生命の"自己複製"システム
一つの細胞が分裂してできた2つの娘細胞に、このDNAを一組ずつ分配すれば、生命は子孫を残すことができる これは地球上に生命が現れたとされる38億年前からずっと行われてきたこと
ここに「生命とは、自己複製を行うシステムである」との定義が生まれる
このことは、DNAがもつ美しい二重らせん構造に明確に担保されている
構造がその機能を体現する
DNAを増やすには?
実際に、細胞内でDNAが複製されるときに生じていることは、きわめて複雑な反応系の連鎖であり、実に、数十以上の酵素や機能タンパク質によって支えられている DNAの二本鎖はまず特別な仕組みでほどされなければならない
らせんをほどくときに生じるねじれを解消する仕組みも必要となる
ほどかれた地点には複数の酵素群が集結し、核酸の材料となるヌクレオチドを動員して一つの鎖を鋳型にして新しい鎖を合成し始める
このとき細胞の狭い核の内部では、数々の空間的な問題が生じる
それを解決しながら円滑なDNA複製を進める仕組みが必要となる
人間が人工的にそれを模倣することはもちろん不可能
一方研究者は、それがほんの小さな断片であても、研究対象とするDNAを複製して十分な量にまで増やさないとそれを生化学的に解析することができない
DNAを増やしたいときには細胞の力を借りるしかない
多くの場合、特別な大腸菌を使って、その内部でDNAを増やしてもらうのが普通の研究方法となっている 1953年のワトソンとクリックの発見以来、DNA複製機構の研究は驚くべき進展を見せ、先に記したようにその複雑な局面が次々と明らかにされていった
そして主要な部分はほとんど解明され、それに関与する分子も出揃った
しかし、これらの解明に多大な寄与を行った数々の著名な科学者たちをしても、あるとてもシンプルなアイデアに思いが至ることはなかった
PCRマシンが起こした革命
1988年に私はアメリカで研究生活をスタートしたが、研究所内でも学会にでかけても、出会う研究者はことごとくすべて躁状態になってPCRの3文字をうわ言のようにつぶやいていた もう大腸菌の力を借りる必要はない
PCRの原理
PCRの原理はシンプル
複製したいDNAが入ったチューブを短時間100℃近くにまで加熱する
すると結合が切れて、DNAはセンス鎖とアンチセンス鎖に分かれる
このあとチューブは一気に50℃程度にまで冷やされる
そこからまた徐々に72℃まで加熱される
チューブの中には、ポリメラーゼと呼ばれる酵素とプライマー(短い合成一本鎖DNA)、そして十分な量のヌクレオチドがあらかじめ入れられている ポリメラーゼは、センス鎖の一端に取り付き、プライマーの力を借りて、センス鎖を鋳型にして、対合するDNA鎖を4つの文字で紡いでいく
同じことがアンチセンス鎖でも起こる
一分程度で合成反応が終わると、DNAは二倍に増える
チューブは再び100℃に加熱される
するとDNAはそれぞれセンス鎖とアンチセンス鎖に分かれる
温度が下げられて、ポリメラーゼによる合成反応が行われる
DNAはこれで四倍
30サイクル後には十億倍
この間、わずか2時間足らず
PCRマシンは、その実、温度を上げ下げするだけの装置にすぎない
100℃に加熱しても、酵素がその活性を失わないように、ここで使われるポリメラーゼは、海底火山近くの土壌から採取された好熱細菌から抽出されたもの 反応の最適温度は72℃
この酵素はPCRの普及に大いに貢献したが、PCRのミソはそこにあるのではない
PCRのミソは、特定の一部だけを抜き出して増幅することを可能にしたことにある
特定の文字列を探して増やす
遺伝子研究では、この中から特定の文字列を探し出さねばならない(ソーティング) しかし、探し出すだけでは不十分で、その部分のコピーを増やさねばならない
PCRとは、DNAの二重らせんがセンス鎖とアンチセンス鎖でできていることを巧みに利用して、ソーティングとコピーを同時に実現するテクノロジー
その鍵は2つのプライマーにある
プライマーとは、ごく短い、十から二十文字の一本鎖DNA
この程度の文字列なら、任意の配列を簡単に人口合成することができる
いま三十億文字からなるゲノムの中に存在する、千文字からなる特定の遺伝子を取り出し、増幅したいとしよう
私たちはまず、千文字のDNA配列の左端、正確に言えば左端のさらに外側の部分に注目する
ここは個人差のない、ヒト共通の配列であり、ゲノム・プロジェクトによってすでに文字列は明らかになっている
プライマー1は、十文字からなり、ちょうどこの部分の、アンチセンス鎖に相補的に対合する配列を持つように合成された
100℃に加熱されてセンス鎖とアンチセンス鎖に分離したゲノムDNAのサンプルには、このプライマー1が添加してある
プライマー1はゲノムに比べて圧倒的に大量に入れられている
温度が一旦、50℃まで下げられると、大量のプライマー1は一斉にゲノムの森の中に散らばり、自分とマッチングする相補的な配列を探す
もし、対合が成立すれば、プライマー1はそこに落ち着く
プライマーが結合した場所をきっかけにして、ポリメラーゼはDNAの合成反応を開始できる
プライマーはその名の通り、ポリメラーゼ反応をプライミングするための土台として働き、ポリメラーゼは、プライマーへ新たな文字をつなげていく
ゲノムの森は深く、類似する配列はおそらく各所に複数あるだろうから、プライマー1はいろいろな場所に結合しうるはず
対合が完全にマッチしないところにも不完全ながら結合するかもしれない
だからポリメラー絵による合成は複数の場所で起こる
しかし、重要なことは、プライマー1は、アンチセンス鎖上の、千文字部分の左端に必ずや対合するだろうといいうこと
プライマー2は千文字配列を挟んで、プライマー1が結合した部分のちょうど反対側の端の配列に対合するような十文字からなっている
ここで重要となるのは、プライマー2は、先程とは逆に、センス鎖に対合するように配列が設計されているということ
センス鎖のこの部分に結合したプライマー2は、ここでもポリメラーゼ反応のきっかけを作り、新しいDNA鎖の合成を引き起こす
ただし、このプライマーはセンス鎖に対合しているから、合成の方向はアンチセンス鎖と対合している先程のプライマー1とは逆方向となる
つまり、プライマー1から開始される合成反応と、プライマー2から開始される合成反応とは、千文字の配列を互いに挟み込むように向かい合いながらも、それぞれ別の鎖を合成するように仕組まれている
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しかもこのサイクルは理論上、無限に繰り返しうる
その都度、千文字配列は倍増する
たとえ、プライマー1と2がゲノムの他の場所で働いたとしても、それは別々に起こる些細なノイズでしかない
プライマー1と2が協調して働く場所は、この千文字配列を挟んだ部分でしかありえないから、この場所だけが連鎖反応的に増幅される
当初、「誰が」この革命的な新技術を発明したのか、ということに関しては、シータス社の研究チームが開発した、ということ以外何もわからなかった
やがて西海岸から伝わってきたのが「ある風変わりな天才がデートの途中でひらめいたらしい」という噂
しかも、その天才はサーファーだという